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ホトトギス [自分史]

 我が家の狭い庭に今年もホトトギスが花を咲かせせている。

 私ががまだ現役時代、社の連中と山に行って撮ってきたものであるから、かれこれ50年近くにわなるが、その間よく咲き続けきたものだとほとほと感心している。
 当時の私の会社では、野草や山草を愛好するもの同士が集まって“山草会”を結成していた。名誉会長?は東大薬学部出身の専務であった。頭の鋭い人で、何事によらず筋を通すことを重んじ、手抜きでもしようものなら相手かまわす徹底的に糾明する人であった。日課のように怒鳴られている部下もいた。
 反面人間味も裕で、稚気愛すべきところもあった。また趣味も多方面にわたり、文楽の愛好家であり、万葉調の長歌も作ったりしていた。あるとき急用でお部屋を訪れたことがある。白紙の上になにやら文字を書き連ね、しきりに頭をひねっているご様子であった。後ほど友人にその話をすると、空海ばりの『新しいいろは歌』を作っているのだとのことであった。
 将棋は強かったがゴルフはお上手でなかった。しかしその下に、更に下手な男(私)がいたので、社内コンペでは、ブービー争いをすることがしばしばあった。しかしその大部分は専務が占めご満悦であった。公私を重んずる人であるから、そのようなことは関係ないと思うが、なぜか私は、こっぴどく怒鳴られるようなことはなかった。

 ある山草会で私はホトトギスらしいものを見つけた。植物図鑑などで見かけているが、まだ花の季節ではないので確信を持てなかったので、近くにいた専務に聞いてみた。専務は一目見るなり、「これはヤマシノホトトギスというもんじゃ。いいものを見つけたのう」と褒めてくれたが「山の草は大切にしなけりゃいかんぞう。むやみやたらに引っこ抜いて持ち帰ったりしてはいかんぞう。まぁ1本や2本ぐらいなら持ち帰っても許されるだろうが、大事に育てなさいよ」と訓辞を賜った。

 あれから約50年、ヤマジノホトトギスは狭いところで咲き続けた。
 だいいち、植えるに適当な場所はない。とりあえずムクゲやサザンカの下草になるところ埋めておいた。初めのうちはまず咲いていたような記憶がある。しかし、山の中の風情を保つために前の方に雑木や雑草を植えたりしたので、ホトトギスは次第に姿形を見せなくなり、家の者たちはもちろん、私自信も花時になると時折のぞきに行く程度であった。それが、20年、30年と経つうちに、ホトトギスの存在感を忘れてしまうようになっていた。

 それが4,5年前のことであろうか。娘たちが雑気や雑草を刈り込んでしまった。とたんにその翌年から今まで人知れず埋まっていた、ホトトギスの姿も見え初め、季節には花をつけてくれた。そして毎年花も大きくなり、この秋などはとくに株も大きくなり前の信楽焼の狸の上にのしかかるようにして、見事な花を見せてくれたのである。
 一時は消えてしまったと思っていたヤマジノホトトギス、よく蘇ってくれたものである。そして見事な花をつけて楽しませてくれている。
 ながねんほっておいたホトトギスの生命力に改めて感じ入るとともに、すまない気持ちがいっぱいである。
そしてあのとき注意を与えてくださった、今は亡き専務にも、近況をかねて報告しておいた。

 「そうか、50年経ってもきれいな花を咲かせているのか。よかった、よかった。これからも大事に育てておくれよ、毎年いい花をつけてくれるだろうからね。---------- おっと、それからどうかね、ゴルフの腕は少し上がったかね」 
 
専務のつぶやき声が聞こえるようである。


雉も鳴かずば撃たれまい

うす暗い夜であった。
祖母と私が二人で川べりに立っていた。私が小学校に入る前だから5歳か6歳、祖母は70歳を超した老婆であった。
目の前に古い橋が架かっていた。淀川にかかる長柄橋である。といってももちろん現在の長柄橋のようなアーチ型の巨大な橋ではない。古い木造の橋の一部が眼に入っただけである。

祖母は長柄橋の人柱の話をしはじめた。
このあたりは洪水がひどく、何度橋を架けても流され、多くの人々が命を落としたりした。町の偉い人たちが集まっていろいろ相談したが、洪水にも流されない丈夫な橋を架けるには人柱が必要がということになった。それを聞いたある長者さんが、世の中の人の為になるのであれば、私が人柱になりましょうと申し出た。そして子供たちの泣き叫ぶのを振り切って、生きたまま大きな箱に石詰めにしてもらって人柱になった。それからはどんな洪水にも流されなくなり、人々の安全は守られたと。
暗闇の中でその話を聞きながら、人柱になった長者さんやその子供たちのことが可哀相でたまらなくなり、私は泣き出した。祖母も涙ぐんでいた。土堤の下の方では鈍い光を放って川が流れていた。

このときの話を、を私は自分史の中に書き込んでいるが、先日長男から “親父の人柱の記事を読んでから
web で調べてみたところ、似た話がたくさんあるが、いずれも、ひいおばあちゃんの言ったことと、ニュアンスが少し違っているね……” といった意味のメールが送られてきた。 

私も早速 web を開いてみたが息子のいうとおりである。
たとえば一つの話をとると
流された橋の地元の関係者が集まって対策を相談しているとき、妻子を連れ男が『袴のほころびを白布で綴った人を人柱にしたらうまく行くそうだ』などと大声で喋りながら通りかかった。それが合議中の人々の耳に入り、いろいろと尋ねられていたが、そのうちにその男の着けている袴がそのとおりであることがわかり、その場で捕らえられ、早速人柱にされることになった。
一緒にいた妻や子は泣き叫び留めようとしたが本人は逍遙として人柱の座についた。妻は泣き狂い、『物言えば父は長柄の人柱、鳴かずば雉も撃たれざらまし』 という歌を残して淀川に身を投じたという。

ほかにもいくつかの説話が紹介されているが、話の大筋は同じであるが、背景や経過などに、それぞれニュアンスの相違があった。

そんな次第で私も改めて人柱に関心を持つようになってきたときに、メル友から近況報告が入った。

先月(3月)中頃、次女の嫁ぎ先である千葉の船橋へ行ってきた。田園の綺麗な、なかなかいいところである。朝方、犬を連れて歩いていると、雉のつがいが野辺を散歩しているのに出会った……などと書いてある。
どうして、つがいかどうかわかるのかと返信してやったが、私は雉の実物を見たことがない。
早速webを開いて図鑑を見た。実に綺麗な鳥である。とくにオスは鮮やかで、メスとの違いもよくわかる。メル友の言うとおりだなと思った。

それはともかく、引き続いて雉の項目を見ていると、『雉も鳴かずば撃たれまい』というタイトルで人柱の民話が出てきた。物語の舞台は長野県の犀川であるが話の大筋は、長柄川や各地の民話とニュアンスの違いはあってもストーリーの構成には大差ない。
私の読んだ一文でも、父の人柱による死を嘆き悲しみ、口もきけなくなった娘が、漁師が撃った雉を抱いて『雉も鳴かずば……』と歌い出すのである。
タイミングよくメールを送ってくれたものだと、メル友に礼を言っておいた。

webを読み続けているうちに、諸外国でも類似の民話、伝説が残っているということを知って驚いた。日本だけの話ではないのだと知って目が覚めた。たとえば城の壁に塗り込むとか、その手段、方法は違っていても、基本的には同じである。
神様は人間に恩恵を与えてくださるると同時に、意に反した場合は恐ろしい災厄をもたらされるのだと、神を畏敬する観念はどの民族にも共通したものがあったのだなと痛感させられた。

祖母は嘉永5年(1852年)生まれである。やがてペリーが来航し世の中も変わろうとするちょっと前である。
祖母の父は福井県出身で、大阪船場に出て商売をしていたらしい。私の実家の墓地には、今でも『越前屋輿惣右衛門』と刻まれた小さな墓石がある。
つまり祖母は船場のコイサンとして育てられてきたのである。そのせいか、あの年代の女性にしては珍しく、文字も一通り心得ていたし、百人一首なども覚えていた。

しかしコイサンの運命は順風満帆ではなかったようである。故あって生母と生き別れ継母のもとで送ることとなり、日常のしつは厳しかったらしい。
何か気に入らぬことでもしようものなら、よく千日前へ連れて行かれたそうである。
千日前といえば現在は歓楽街であるが、その当時は墓地や刑場のある恐ろしい場所であった。あたりには処刑人の首が並べられていたり、さらし台やはりつけ台などがあったらしい。継母は懲らしめのためにしばしば幼い祖母を連れて行ったということである。
同じような事情で長柄橋にもつれてゆかれ、人柱の話を聞かされたのであろう。

祖母はこれらのことを終生忘れることがなかったようである。
後年になっても同年配のお婆さん仲間の集まりで話したり、私の従兄弟を含む孫たちに面白可笑しく且つ恐ろしげに話してくれることしばしばであった。
祖母は1945年9月、すなわち太平洋戦争が終わった直後、戦地にいる孫たちのことを思いながら往生したそうである。




笠富士

今年の10月に富士山を見に行った。
寝たり起きたりしている家内が富士山を見たいと言い出したのである。
と言っても登るわけではない。高齢のうえに外出には車椅子のご厄介になっている体である。登るなんてとんでもない話である。世界遺産に登録され、あの優美な姿が新聞やテレビでよく見かけるようになってから、ひと目肉眼で見ておきたいということになったらしいのである。
その話を聞いて子供たち(いずれも還暦前後 ! )は,それにしても大変なことだなといいながら経路などいろいろと相談していたが、大阪から三島まで新幹線、三島でレンタカーを借りて富士山麓まで行こうというプランになった。
その日は朝からあいにくの曇り空。前日までの好天が馬鹿みたいであった。あれほどおばあちゃんが楽しみにしていたのにと、皆残念がることしきり。
三島に着いたときは小雨が降っていた。
最初の目的地は山中湖である。
もちろん雨を含んだ曇り空。晴天なら目の前に富士山の美しい姿が臨めるはずであるが,今日はそれどころではない。ただ対岸の富士山が立っているあたりに大きな雲があぐらをかいているだけ。子供たちも、あそこに富士山があるんだよとおばあちゃんを慰めている。

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しばらく山名湖周辺を徘徊してホテルに向かう。
道中大きな雲に覆われたお山が見える。心なしか少し晴れてきたような気がする。

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淡い期待を抱きながらホテルに着く。
河口湖のほとりである。ここも絶好の地である。ホテルのベランダから富士山が手に取るように見えるはずである。
しかしお山は相変わらず雲を着たままである。
しばらくホテルの中を見物していると館内放送があった。
雲に覆われて富士山もご覧になれなかったですが、ようやく雲が晴れかかってきたようです。どうかご観賞ください、といった意味の案内である。ホテル側もかなり気を遣っているのであろう。
ベランダに出る。
富士山が見える。だが期待した富士山ではない。雲を着ている、頭にも雲がかかっている。
しかししばらく見ているうちに山の形がややはっきりしてきた。頂上の雲も色のついた笠のように見えてきた。
ここで初めて笠富士という言葉を思いだした。聞いたことはあるが見るのは初めてである。高貴である。つばの広い帽子を頭にした中世ヨーロッパの貴婦人が、宮殿の庭に佇んでいる姿を連想したりした。

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この分なら明日はいい天気だろう。本当の富士山が見られるだろう。
そんな期待を持ってその晩は寝についた。

翌朝目が覚めるとあたりは曇っていた。それどころか、湖面には雨が降っているようである。

帰るしかない。
雨はかなり強くなってきた。車のワイパーは動きどおしである。

“凱風快晴” 富嶽三十六景はじめ、新聞の写真やテレビでよく目にする、 青空にくっきり映えた霊峰の姿を目にすることが出来なかったのは残念であるが、見たこともない素敵な笠富士を見することが出来たのは収穫であったと、負け惜しみ半分の談笑を交えながら、大阪に帰った

                          

くちなしや… [雑感]

2,3日前から庭の片隅にクチナシが咲いている。

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濃い緑の葉っぱに純白の花弁が映え、毎年、梅雨時の庭に潤いを添えてくれているが、

今年は今のところ空梅雨で、その趣に賭けるところがあるのが残念である。
 

クチナシの果実は山梔子(サンシシ)と呼ばれる。


私の郷里は和歌山県の中部海岸地帯であるが、中学時代、同級生に

ちょっと離れた漁村から通っている T という男がおった。

あるとき雑談をしていると「サンシチ、サンシチ…」と連発しだした。

「サンシチってなんや? 掛け算の九九のことかいな。サンシチ21のことかいな」 と聞くと 

「知らんのか。アホやなあ」といいながらながながと説明しだした。

T はサンシシのことを言ってるのであった。

T の地方では「サンシシ」のことを「サンシチ」と訛っていることが分かって、みんな大笑いした。

「餅つきの時、粉にして混ぜるとええ色がでるんや」とも T は言っていた。

山梔子の実は漢方薬に使われているということは聞いていたが、

食品の着色用にも使われているのだということをことをそのとき初めて知った。


しかし、私は毎年この花が咲く季節になると、昔聞いた落語を思い出して、ひとりでクスリとするのである。


    口なしや 鼻から下は すぐにあご


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狂い咲き [雑感]

今朝(19日)、眠気まなこで庭先を眺めいると、ヒョロヒョロと伸びたウツギ(空木)の枝先に白いものがついていた。ティッシュぺーパーの切れ端でもひっっかかているのかなと思って、眼鏡をかけてよく見るとウツギの花が咲いているではないか。

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ウツギといえばご承知のとおり、卯の花とも言われ、小学唱歌にもある如く、ホトトギスの鳴くころ、すなわち初夏に咲くものである。それが何故今ごろ咲くのかと思うと、ちょっと変な気になってきた。

そういえば一週間ほど前の新聞で、どこかで桜が咲いたという記事を見た。季節外れの桜が咲いたという話は、いままでもチョイチョイ耳にしたことがある。しかし初夏の風物詩である卯の花が、今ごろ咲くとは何事かと思った。異常気象なのかな。

うちの狭い庭に、ウツギの横にムクゲが植わっている。そのムクゲも今年は去年より花期が長いような気がする。10月の初めまで咲いていた。

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昨年挿し木にして鉢植えにしたチビちゃんムクゲも、6月から咲き始め、盛夏の間は休んでいたが、秋風が吹き出すと咲き残った蕾がいじらしくも開いていた。

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いづれにしても、型破りというものは面白いものでもある。

秩父 :竹細工とロケット [雑感]

今年の3月、孫娘から送られてきた誕生祝いの中に、謎の物体だと添え書きのついた小さな箱があった。
開けてみると、竹細工の花器が出てきた。

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トンボとカニちゃんがついていた。

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トンボの嘴を竹の先端にくっつけると、磁気が作用して、ゆらゆら揺れるが、なかなか落ちない仕掛けになっていて面白い。

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早速庭に咲いているワビスケを挿してみた。

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以後、食卓に置いて季節のものを楽しむことにしている。

わが家の狭い庭にもウツギが一本ある。ウノハナである。ホトトギスなんか飛んでこないが、青葉の候になると白い花をつける。これも一本挿してみた。

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いまムクゲが咲き誇っているので、これも一輪。ただし、槿花一朝、この花は毎日替えてやらねばならない。

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孫は東京で、スカイツリーの見えるマンションに住んでいる。夫君は秩父の出身で、ご両親、ご家族は秩父でご健在である。

この花器も、その秩父の産品である。

関西人の私は、秩父のことは、秩父銘仙、秩父セメントぐらいしか知らなかった。
ただし、『秩父』という名には馴染みがあった。昭和天皇の弟さまに、秩父宮殿下といわれたお方がおられ、軍服姿の写真を、子供のときからよく眼にしていたからである (トシがわかる!)。

その秩父へ一昨年の10月、ご両親のお招きで初めて行ってきた。
その日は、近くの椋神社の祭りの日であった。

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この祭りは龍勢祭りとも言われ、伝統あるロケットの打ち上げで知られている由緒ある祭りだとのことも、初めて知った。十数分の間隔で、伝承の手作りロケットが次々と打ち上げられていた。

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秋空に舞い上がる姿はまさに昇龍の勢いである。
上空でロケットが開き、さまざまなパフォーマンスが見られ感動した(ただし写真撮影は失敗)。

先日も、こんな素晴らしい祭り、何故全国区にならないのかなと言ったら、『去年の4~6月に、秩父を舞台としたアニメが放映され高い視聴率であった。そのため、去年の祭りなんかはアニメおたくが全国から集まって、大変な人出だったよ』と孫は言っていた。

ふるさと・煙樹ヶ浜海岸 [紀州和歌山]

先週末、久しぶりに故郷へ帰ってきた。

和歌山県日高郡美浜町である。

家を出て2~3分も歩けば浜辺に出る。

浜辺にでると、紀州の殿様が植樹したと言われる防潮林(松林)が眼に入る。
延長約5キロ、虹の松原や美保の松原などに比べれば知名度は低いが、三大松原にひけをとるものではないと地元の人たちは言っている。
遠望すると、遙か彼方が霞んで見えることから『煙樹ヶ浜』と呼ばれている。

砂浜に出る。
ひさしぶりに見る大うなばら、空は晴れ、海は穏やかであった。
秋や冬には、対岸の徳島県の山々が見えたものであるが、この日は見えなかった。
広い海が広がっているだけであった。

岸辺では釣り人があちこちで糸を垂れており、
砂浜では子どもたちが叫び声をあげているようであった。

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少し小高いところではは、ハマヒルガオが咲いていた。

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ムクゲ3姉妹プラス [知己]

そちらの庭に咲いているムクゲ、一本分けてくれないか…というメールが知り合いから届いたのは去年の梅雨入りのころであった。
その知り合いとは昔の会社の同僚で、趣味とか大げさに言えば人生観(?)まで共通点が多かった。
例えば古寺をめぐるとか、美術館をぶらつくとか、また歌舞伎や文楽に興味を持つとか。
そんなわけで喧嘩もしばしばしたが、おおむね意気投合し、在勤中はもちろん、お互い退社をした後も交友を続けてきた。

早速挿し木をしてその秋に2株を渡してやった。

それが今年の7月はじめに、“咲いたぜ…”と写メールを送ってきた。
なるほど、小さいながらも親譲りのピンクの花が咲いてるではないか。
親株はまだ咲いていないというのに、親不孝な奴だなと思いながら、オベンチャラのメールを送ってやった。

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それから2日後、こちらの親ムクゲも咲いた。
嫁に出した娘に遅れをとったが、咲いてみればさすがに堂々の貫禄である。

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それから2日ほどしてまたメールが入った。
妹株の2鉢目も咲いたというのである。
姉妹そろって咲き誇っているとのことである。

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ところで去年頼まれて挿し木した後しばらくして、自分用にと一本挿しておいた。
秋になって姉さんたちがお嫁に行くときはまだ小振りであった。
そして姉さんに第1号の花が開いたという知らせを受けたときはまだ小さな蕾がついているだけであった。
その後2番目の姉さんも咲き、姉妹で咲き競っているというのに、こちらの方は蕾のままである。やはり末っ子はダメなのだろうかと、じれったい思いであった。

しかし末っ子だって捨てたものではない。
8月はじめ、待望の花が開いた。姉さんたちに遅れること1ヶ月あまりである。
なりは小さいがイッチョマエの咲きっぷりである。しかも混じりけのない薄淡いピンク一色である。親株はどうしたわけかピンク一色のものと紅白入り混じった花の2種類を咲かせている。こちらはどうやらピンク一色の方のDNA(?)を受け継いだものらしい。
早速メールで報告してやった。

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私の家にムクゲがはじめて来たのは、かれこれ40年ばかり前である。
しかしずっと鉢植えのままにしておいたので株は大きくならないが毎年忠実に、白地に赤く日の丸を染めたような花を咲かしてくれている。植物学に疎い小生は、ムクゲとはこういうものかと思っていた。

そこへ数年前、現在咲き誇っているピンク系が来たのである。
地植にしたから株はどんどん大きくなり枝数は増え、毎年数多くの花を咲かせ権勢を誇っている。先輩の日の丸はも片隅に追いやられてしまった形である。
側室の淀殿と正室北政所・寧々のようなものである。
しかしわが寧々さんも負けてはいない。小振りながらも毎年清楚な花をつけ存在感を示している。

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これに目をつけたか我が知友も、日の丸系も欲しいようなことを言っていた。
ところがこのほどメールがあり、駅からの帰り道見つけた、日の丸系ムクゲの坊やが、お姉さんたちの所へ行きたいと駄々をこねたので連れて帰ってきたと言ってきた。そしてその数日後またメールが入り、その坊やにも1号が咲き、姉さんたちと紅白仲良く咲いているとの知らせがあった。

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これでピンク系3姉妹、そして新規参入の日の丸坊やが揃って咲かせたことになる。
今年はいずれも小振りで、花数も少ないが、来年が楽しみである。


なお去年挿し木を渡した節、そのお返しにと、ハナキリンを頂戴した。
この春見事な花をつけた。年中咲く花だそうであるから秋を楽しみにしている。

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山中温泉・紅一点

一月以上も前のことであるが、6月はじめ、山中温泉へ行ってきた。

宿は閑静なところにあり落ち着いた雰囲気で、サービスも至れり尽くせりであった。

部屋の窓を開けてベランダに出ると、目の下にに渓流が流れていた。
梅雨時で水の色は濁っていたが、両岸の若葉青葉は雨を含んでみずみずしかった。

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しばらく休憩して渓流の方へ下りてみた。
宿を出るとすぐそばに、鶴仙渓遊歩道という案内板が立っていた。しかし雨でもあるので周辺を散策していると、芭蕉堂という小さなお堂があった。芭蕉とはもちろん俳聖松尾芭蕉のことである。

芭蕉は元禄2年3月末江戸の深川を出発し、約5ヶ月かけて岐阜の大垣まで旅をし、『奥の細道』という紀行文をものされたことは諸兄姉ご承知のとおりである。

その奥の細道の途次この山中温泉に立ち寄られたのである。
よほどこの地が気にいられたか、あるいは長い旅の疲れがどっと出て休養されたか、8泊も逗留されたそうである。
そのためか当地には芭蕉ゆかりの施設が他にもあるそうである。

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渓流には黒谷橋というちょっとレトロな橋が架かっている。そのそばに見えるのが私たちの泊まった旅館である。

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渓流の畔をしばらくうろうろして宿に戻った。

部屋に帰ってもう一度窓の下を見ると、青葉の茂みの中に、うす紅色のものが一点見えた。
先ほどは気がつかなかったが、足許の木にである。
春には数多くの花を咲かせ、おそらく散り残った一輪であろう。
私は素晴らしいものを見た気がした。
 
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万緑叢中紅一点 
いろんな意味で引用されている、古詩の一節を口ずさみながら、私は、しばらく見入っていた。









万博公園で花見

先日大阪の万博記念公園へ花見に行ってきた。
前日までの雨も止み絶好の花見日和であった。そして花は満開、ときどきそよ風が渡ると花吹雪を散らしていた。
私は程遠からぬ所に住んでいながら桜の季節に来るのは初めてで、なかなか見応えがあると感心した。

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しかし私を驚かせたのは人出であった。
次から次へと押し寄せ、まるで津波のようであった。こんな津波なら大歓迎である。
こういうご時世であるから花見客も少ないだろうと思ってきたのは間違いであった。しかしそれは嬉しい思い違いであった。そして気分がうきうきしてきた。

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大阪万博のシンボル太陽の塔も春の空を背にして、ほほえんでいるようであった。
生誕100年を迎えた岡本太郎さんもきっと笑顔で見守ってくれているのであろう。

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