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ふるさと・煙樹ヶ浜海岸 [紀州和歌山]

先週末、久しぶりに故郷へ帰ってきた。

和歌山県日高郡美浜町である。

家を出て2~3分も歩けば浜辺に出る。

浜辺にでると、紀州の殿様が植樹したと言われる防潮林(松林)が眼に入る。
延長約5キロ、虹の松原や美保の松原などに比べれば知名度は低いが、三大松原にひけをとるものではないと地元の人たちは言っている。
遠望すると、遙か彼方が霞んで見えることから『煙樹ヶ浜』と呼ばれている。

砂浜に出る。
ひさしぶりに見る大うなばら、空は晴れ、海は穏やかであった。
秋や冬には、対岸の徳島県の山々が見えたものであるが、この日は見えなかった。
広い海が広がっているだけであった。

岸辺では釣り人があちこちで糸を垂れており、
砂浜では子どもたちが叫び声をあげているようであった。

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少し小高いところではは、ハマヒルガオが咲いていた。

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ムクゲ3姉妹プラス [知己]

そちらの庭に咲いているムクゲ、一本分けてくれないか…というメールが知り合いから届いたのは去年の梅雨入りのころであった。
その知り合いとは昔の会社の同僚で、趣味とか大げさに言えば人生観(?)まで共通点が多かった。
例えば古寺をめぐるとか、美術館をぶらつくとか、また歌舞伎や文楽に興味を持つとか。
そんなわけで喧嘩もしばしばしたが、おおむね意気投合し、在勤中はもちろん、お互い退社をした後も交友を続けてきた。

早速挿し木をしてその秋に2株を渡してやった。

それが今年の7月はじめに、“咲いたぜ…”と写メールを送ってきた。
なるほど、小さいながらも親譲りのピンクの花が咲いてるではないか。
親株はまだ咲いていないというのに、親不孝な奴だなと思いながら、オベンチャラのメールを送ってやった。

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それから2日後、こちらの親ムクゲも咲いた。
嫁に出した娘に遅れをとったが、咲いてみればさすがに堂々の貫禄である。

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それから2日ほどしてまたメールが入った。
妹株の2鉢目も咲いたというのである。
姉妹そろって咲き誇っているとのことである。

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ところで去年頼まれて挿し木した後しばらくして、自分用にと一本挿しておいた。
秋になって姉さんたちがお嫁に行くときはまだ小振りであった。
そして姉さんに第1号の花が開いたという知らせを受けたときはまだ小さな蕾がついているだけであった。
その後2番目の姉さんも咲き、姉妹で咲き競っているというのに、こちらの方は蕾のままである。やはり末っ子はダメなのだろうかと、じれったい思いであった。

しかし末っ子だって捨てたものではない。
8月はじめ、待望の花が開いた。姉さんたちに遅れること1ヶ月あまりである。
なりは小さいがイッチョマエの咲きっぷりである。しかも混じりけのない薄淡いピンク一色である。親株はどうしたわけかピンク一色のものと紅白入り混じった花の2種類を咲かせている。こちらはどうやらピンク一色の方のDNA(?)を受け継いだものらしい。
早速メールで報告してやった。

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私の家にムクゲがはじめて来たのは、かれこれ40年ばかり前である。
しかしずっと鉢植えのままにしておいたので株は大きくならないが毎年忠実に、白地に赤く日の丸を染めたような花を咲かしてくれている。植物学に疎い小生は、ムクゲとはこういうものかと思っていた。

そこへ数年前、現在咲き誇っているピンク系が来たのである。
地植にしたから株はどんどん大きくなり枝数は増え、毎年数多くの花を咲かせ権勢を誇っている。先輩の日の丸はも片隅に追いやられてしまった形である。
側室の淀殿と正室北政所・寧々のようなものである。
しかしわが寧々さんも負けてはいない。小振りながらも毎年清楚な花をつけ存在感を示している。

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これに目をつけたか我が知友も、日の丸系も欲しいようなことを言っていた。
ところがこのほどメールがあり、駅からの帰り道見つけた、日の丸系ムクゲの坊やが、お姉さんたちの所へ行きたいと駄々をこねたので連れて帰ってきたと言ってきた。そしてその数日後またメールが入り、その坊やにも1号が咲き、姉さんたちと紅白仲良く咲いているとの知らせがあった。

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これでピンク系3姉妹、そして新規参入の日の丸坊やが揃って咲かせたことになる。
今年はいずれも小振りで、花数も少ないが、来年が楽しみである。


なお去年挿し木を渡した節、そのお返しにと、ハナキリンを頂戴した。
この春見事な花をつけた。年中咲く花だそうであるから秋を楽しみにしている。

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山中温泉・紅一点

一月以上も前のことであるが、6月はじめ、山中温泉へ行ってきた。

宿は閑静なところにあり落ち着いた雰囲気で、サービスも至れり尽くせりであった。

部屋の窓を開けてベランダに出ると、目の下にに渓流が流れていた。
梅雨時で水の色は濁っていたが、両岸の若葉青葉は雨を含んでみずみずしかった。

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しばらく休憩して渓流の方へ下りてみた。
宿を出るとすぐそばに、鶴仙渓遊歩道という案内板が立っていた。しかし雨でもあるので周辺を散策していると、芭蕉堂という小さなお堂があった。芭蕉とはもちろん俳聖松尾芭蕉のことである。

芭蕉は元禄2年3月末江戸の深川を出発し、約5ヶ月かけて岐阜の大垣まで旅をし、『奥の細道』という紀行文をものされたことは諸兄姉ご承知のとおりである。

その奥の細道の途次この山中温泉に立ち寄られたのである。
よほどこの地が気にいられたか、あるいは長い旅の疲れがどっと出て休養されたか、8泊も逗留されたそうである。
そのためか当地には芭蕉ゆかりの施設が他にもあるそうである。

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渓流には黒谷橋というちょっとレトロな橋が架かっている。そのそばに見えるのが私たちの泊まった旅館である。

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渓流の畔をしばらくうろうろして宿に戻った。

部屋に帰ってもう一度窓の下を見ると、青葉の茂みの中に、うす紅色のものが一点見えた。
先ほどは気がつかなかったが、足許の木にである。
春には数多くの花を咲かせ、おそらく散り残った一輪であろう。
私は素晴らしいものを見た気がした。
 
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万緑叢中紅一点 
いろんな意味で引用されている、古詩の一節を口ずさみながら、私は、しばらく見入っていた。









万博公園で花見

先日大阪の万博記念公園へ花見に行ってきた。
前日までの雨も止み絶好の花見日和であった。そして花は満開、ときどきそよ風が渡ると花吹雪を散らしていた。
私は程遠からぬ所に住んでいながら桜の季節に来るのは初めてで、なかなか見応えがあると感心した。

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しかし私を驚かせたのは人出であった。
次から次へと押し寄せ、まるで津波のようであった。こんな津波なら大歓迎である。
こういうご時世であるから花見客も少ないだろうと思ってきたのは間違いであった。しかしそれは嬉しい思い違いであった。そして気分がうきうきしてきた。

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大阪万博のシンボル太陽の塔も春の空を背にして、ほほえんでいるようであった。
生誕100年を迎えた岡本太郎さんもきっと笑顔で見守ってくれているのであろう。

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南部紀行 [紀州和歌山]

先日の3連休に南部梅林へ行ってきた。
どうせ行くのなら墓参を兼ねて孫たちに私たちの生まれ故郷を見せたやろうと思って少し回り道をすることにした。
和歌山市を過ぎてしばらくしてから高速を降り,くねくねとした海岸道路を走っていると、やがて白い岬が海に突出しているところに出る。

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町村合併で今はその名がなくなったが昔は白崎村と言っていたところである。そのころは岬はもっとボリュームがあった。岬が白いのは石灰石で出来ているからであるが、セメント会社がその大部分を掘り尽くし、いまは外郭だけが残っているのである。そしてその跡は白崎海洋公園となり、レストランやスキューバダイビング教室なんかできており、シーズンになると青や黒の潜水服を着けたダイバーたちで賑わっている。

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海洋公園の近くに万葉歌碑がある。
 白崎は幸くあり待て大船に真楫頻貫(まかじしじぬ)きまたかへり見む
持統天皇の一行が沖合を通ったとき詠まれたものだそうである。海に突き出た白い岬とその周辺の景色が、よほど印象的であったものと思われる。

白崎から再び田舎道をしばらく走ると煙樹ヶ浜海岸に出る。

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延長約12キロ、半円形の弧を描いて海岸線が伸びている。そしてその砂浜の尽きるところに、幅500メートル、延長約5キロに及ぶ松林が連なっている。代々の紀州の殿様によって手厚く保護されてきたという防潮林である。

煙樹ヶ浜の名称は古くない。今でこそガイドブックなどで一般的になったが、それまでは地元でもあまり知られていなかった。海浜に連なる松林に煙がたなびくようにかかっている様を描いた某画伯がつけ名だということである(出典は漢詩)。なお煙には、火をたいたときに立ちのぼるケムリと空中に立ちのぼるカスミやモヤの両方の意味があるが、ここではもちろん後者の方である。 

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その日は昼過ぎまで雪が舞うような天気であったため、空はまだどんよりとしており海の色もどす黒く波も騒いでいた。白砂青松という趣にはほど遠いものであった。孫たちにその景観を味あわせてやろうと折角回り道をしてきたのに残念至極であった。
その代わり、見渡すかぎり遮るもののないズンベラボーな海岸で育ったものだから,人間までズンベラボンで取り柄のない男になってしまったのだと言ってやったら笑っていた。

煙樹ヶ浜の南端を日高川が流れ海に注いでいる。
芝居の道成寺もので知られている日高川である。私たちは子供のころ、安珍の後を追って蛇体になってこの川を泳ぎ渡ったという清姫の話をよく聞かされた。そのせいか歌舞伎で娘道成寺を初めて見たときはがっかりしたものである。
道成寺は河口から4キロほど遡ったところにある。

日高川を渡り再び高速にのれば半時間あまりでみなべ町に着く。
ホテルは海岸にある。窓から南紀白浜方面が望まれる。

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2日目は前日と打って変わってよく晴れた空であった。窓から入り込む光がまぶしいくらいである。
一同張り切って南部梅林に向かった。
みなべ町は日本一の梅の産地である。とくに最近は南高梅などで全国区になっている。
200ヘクタールに及ぶという山々の斜面は梅で埋め尽くされている。もちろん実をとるための梅で花を見せるための梅でないが、全山梅の花で埋め尽くされてときはどんなに素晴らしいであろうかなどと想像しつつ坂道を上って行く。しばらく昇ると梅公園という一角があり、紅梅など観梅のための木々が植えられている。

公園で一休みしていると向こうから青い衣装をまとった頭の大きな人が踊りながらやってきた。ゆるキャラである。名前を『だるだる』というのだそうである。この地方の神さまに関係があるらしい。アイスクリームなんかを食べながら子供たちに愛嬌を振りまいている。

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公園の一角に茶席があり、幾組かの人たちが野点を楽しんでいた。

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私たちもと思ったが、順番待ちにかなりの時間を要しそうなので割愛し、広い梅園の一部を見て回ることにした。
案内図にしたがって見て回ったが、見渡す限りの山の斜面は梅また梅である。

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ここの梅にも遅速はあるようであるが、おおむね未だ五分咲き、これが満開になればどんなに見事であるだろうと思いながら一回りした。

さらば凍れる音楽・薬師寺東塔 [奈良大和路]

薬師寺東塔の解体修理がいよいよ開始されるとのことである。完工はは10年先だというから、あの優美な姿もいよいよ見納めになるかとかと思って、先日久しぶりに訪れてみた。

平日にもかかわらずかなりの参拝人であった。

案内所を出ると金堂と東塔が目に入る。

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そして東塔。フェノロサが『凍れる音楽』と言って感嘆したといわれているが、私などは表現の言葉を知らない。

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東塔の脇に佐佐木信綱の歌碑がある。

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  逝く秋のやまとの国の薬師寺の塔のうえなるひとひらの雲

碑面はくすんで読みづらいが、有名な歌である。
この日は雲が多く、ひとひらの雲の風情ではなかった。

私が薬師寺東塔の魅力に惹かれるきっかけとなったは小津安二郎監督の映画『晩春』である。笠智衆とその娘役の原節子が、金堂の階段に腰を下ろして塔を眺めているシーンは今でもかすかに覚えている。それを契機に薬師寺、そして唐招提寺のファンになり、西の京をしばしば訪れるようになった。

寺の外から蓮華畑越しに塔を眺めることもあった。

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中央の金堂をはさんで、東塔と対称的な位置に西塔が立っている。

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西塔の再建は1981年である。再建以前は基壇だけが残っていた。
基壇の中央に心柱の跡があり、そこ雨水が貯まって東塔の影を映していた。
マニア蓮がしきりにカメラを構えていた。

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その横手に小さな池があり周囲にサツキが咲いていた。ここにも東塔がその影を落としていた。

0043金堂前池.jpg(1974年)

金堂をはじめ講堂、西塔と復元され四囲に回廊が廻らされ、壮大な白鳳伽藍が再現された現在は、このような光景に接することはくなった。

金堂に入り、薬師三尊を拝むことにした。
薬師如来を中にして左右の日光、月光の両菩薩が、少し腰をくねらして立っている。

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金堂を出ると講堂である。薬師寺伽藍のうちでは最大の建築物である。

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堂内の弥勒三尊像などを拝し、一休みして寺を辞すことにした。


帰りがけにもう一度振り返ってみた。講堂・金堂を中にして、東西の両塔が優美な姿を覗かせていた。

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タグ:薬師寺

槿花一朝の夢 [雑感]

いま拙宅の庭先に一本のムクゲが花をつけている。
去年までは6月の下旬に咲いていたように記憶しているが、今年は天候のせいか7月に入って咲き始めた。

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植え付けてから10年あまりになる。毎年落葉後刈り込んでやるから背丈は伸びないが、新しい枝が次から次へと出て、隣家との仕切り塀一杯に広がり窮屈そうである。枝枝には蕾がぎっしり付いていて次から次へと花が咲き、9月半ばまでもを楽しませてくれる。

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ムクゲは漢字では槿または木槿と書かれるが、花期が長いことから無窮花とも表示され、韓国の国花であることはご承知とおりである。
一本の木としての花期は長いが、一輪一輪の咲いている時間はきわめて短い。樹種にもよるらしいが、たいていは朝開いてその日の夕方には萎む。そして一日ぐらいおいて落ちるのであるが、桜のようにひらひらと散るのではなく、萼をつけたままポトリと落ちる。この頃になると毎朝花の下に哀れな姿がいくつも見られる。

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『槿花一朝の夢』という用語がある。白楽天の詩から来たといわれている。
白楽天の『方言』という詩のなかに『 槿花は一日なるも自ら栄となす』という句がある。しかしこの句には、槿の花は一日しか咲かないが、それはそれなりの栄華である、という意味があり、むしろムクゲにとって肯定的、楽天的(?)であると思われる。
しかし『槿花一朝の夢』となるといささか趣が異なる。
あしたに開いて夕べにしぼむ。儚いものの代名詞のようである。と同時に、平家物語に出てくる『……沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらはす』というように、栄華を誇りつつやがて滅び去るものに対する哀感、日本的ロマンティシズムが感じられるのは私だけであろうか。
(ただしこれは先日行われた参議院選挙とはなんの関係もないことを念のため申し添えておきます)

若葉して… [奈良大和路]

先日唐招提寺へ行ってきた。
唐招提寺の魅力は、あのシンプルで端正な金堂が南大門をくぐった途端に目に入ってくることである。
その金堂は平成の大修理のため、2000年以来長らく素屋根を被せられていたが、昨年11月完成した。

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かれこれ50年ばかり前のことである。大阪の会社に勤務していた私は社用で奈良へ行き、帰りにちょっと回り道をして唐招提寺に寄ってみた。冬の寒いときで参拝人はなく静寂そのもので、眼の前に金堂だけが粛然と立つていた。その均整のとれた、しかも重厚な容姿は、いたく私の心を打った。
私が多少なりとも古寺関心を持つようになったきっかけである。
下の写真はその時のものである。

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金堂の正面に立つと、これまた豪華である。
中央に毘盧遮那仏、向かって右に薬師如来、左に千手観音と、超豪華な3体の仏様が目の前に迫ってくる。

金堂の左手前に会津八一の歌碑がある。

   おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ

私は月夜の晩に参詣したことはないが、その情景がしのばれる。

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金堂の裏の講堂を拝観し、その横手の細長い礼堂に沿って少し行くと芭蕉の句碑がある。

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  若葉して御目の雫拭はばや  はせを

芭蕉の有名な句である。
そばに木札が立っていて、元禄元年(1688)、俳人松尾芭蕉が当寺に詣でたおり、鑑真和上像を拝して詠んだ句であるとの説明がなされている。

周知のとおり、鑑真和上は戒律を授ける導師として請われ、周囲の反対を押し切って自ら渡日を決意された。742年のことである。ただし当時の航海はきわめて危険であった。数次にわたり試みられたが果たせず、その間嵐に遭い、同行の弟子は死去、ご自身も失明された。そして753年、六回目の渡航でようやく目的を達せられたのである。
両眼を閉じられた和上の像を拝し、芭蕉もいたく感動したことであろう。

その鑑真和上座像は現在、句碑の横の石段を上がった所にある御影堂に収められている。

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座像は毎年6月の開山忌に公開される。像をとり巻く東山魁夷画伯の障壁画も公開され、この日は行列ができる。
私も10年あまり前、孫娘と拝観したことがある。高校生であった孫は障壁画の前にじっと立ったまま、しばらく動かなかった。

御影堂の東に長い土塀がある

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その中程の門をくぐると苔に覆われた庭があり、その奥に和上の墓所がある。

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緑の木々の囲まれた土饅頭の上に、鑑真和上は静かに眠っておられる。




平城宮跡 [奈良大和路]

先日奈良へ行く機会があったので平城宮跡へ寄ってきた。
ただいま奈良では平城遷都1300年祭が行われているが、そのメイン会場である。
1300年祭は4月の下旬から11月上旬まで開かれている。開幕当時は大変な賑わいであったと聞くが今は特別なイベントもなく、人出はそれほど多くなかった。

近鉄西大寺駅から東へ10分ほど歩くと平城宮跡に着く。
敷地内に入ってしばらく行くと左前方に大極殿が見えてくる。

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広場の路をしばらく歩いて行くと異様な衣服を着た集団が目に映った。
近づいてみると修学旅行かなんかの高校生たちである。天平衣装を着用してはしゃいでいる。

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大極殿の正面に出る。
コンピューターも土木建築機器などもない1300年前、よくこんな壮大のものができたものだと思う。復元工事中、進捗状況の公開が何度かあり、私も二度ほど来ているので感慨はなおさらである。
なお平城宮跡には第一次大極殿跡と第二次大極殿跡があるが、今回復元されたのは第一次の方である

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大極殿の中に入る。
大極殿は政治や儀式の場である。仏像や付属品装飾品など所狭しと置いてある寺院などに比べればすっきりしている。中央に高御座が置いてあるだけである(周辺には展示品が並べられているが)。
高御座といえば即位、朝賀、外国使節の謁見などで天皇が座られたところである。いまの天皇陛下が御即位の時も高御座を使用されているのをテレビで見たが、あれは京都御所から運んだものである。目の前にある復元された高御座はあれほど装飾性はなくシンプルである。

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殿内の周囲の壁には四神(青龍・玄武・白虎・朱雀)と十二支が描かれている。筆者は上村淳之画伯である。

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大極殿から南を望むと広い庭があり、その向こうに一地面の芝生が広がっている。朝堂院跡である。
その向こうを近鉄電車が走っており、そして更にその向こう朱雀門がある。

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朱雀門の付近には平城京歴史観や遣唐使船の復元モデルが展示されているが、時間の関係で行けなかった。
会期はまだまだ長いので、いずれまた行きたいと思っている。

卯の花くだし [雑感]

今年もウツギ(空木)が咲いている。卯の花である。

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卯の花は古来詩歌に多く歌われている。
俳句の世界には卯の花腐し(ウノハナクダシ)という季語がある。
この季節、降りつづく雨で卯の花も腐ると言うことであるらしい。
腐るというのはチョット大げさなような気がするが、今年は雨が多いので、我が家の卯の花も梢がうなだれ、花びらは散っている。
下に立っているシガラキくん親子(?)もチョット浮かぬ顔をしている。

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なお、俳句歳時記を開けてみると『卯の花腐し』の項に、いくつかの例句があげられているが、深い味わいは分からないが、情緒纏綿とした次の句が気になった。

   卯の花くだし きぬぎぬを知りつくしけり       加藤かけい

ところで卯の花とホトトギスは相性がよいらしい。万葉集にもよく出てくる。しかし風雅からほど遠いわが家では、ホトトギスのしのび音などきいたことがないし、変な天候の続く今年は、『夏は来ぬ』という実感も湧かない。

(長らくご無沙汰していましたブログを、年来の知己の勧めもあり、1年ぶりに更新してみました。テーマも同じ卯の花です。いつまで続くか分かりませんが)
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